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本記事「たかが翻訳、されど翻訳」では、私が手掛けている翻訳事業の日々の業務のなかで感じていることを紹介します。


『翻訳』という言葉を連想した時、その世界にあまり馴染みのない人にとっては「外国語⇒母国語」より「母国語⇒外国語」への作業の方が難しいと感じられるかもしれません。実際に翻訳会社のなかには、日本語への翻訳(和訳)に比べ例えば英訳の料金の方を多少割高に設定しているところもあるように感じられます。


しかし、母国語への翻訳(ここでは当然日本語なので和訳です)は実は悩ましくもあり、また心して取り組まなければならないものであると思っています。翻訳を行う際、原文を正確に解釈することや専門用語をしっかりカバーすることといったクリアすべき最低条件はプロの翻訳者なら誰でも意識していることでしょう。ところが、翻訳者によって仕上げられた訳文の完成度という意味では非常にばらつきがあるのが実情です。特に和訳の場合、訳文が母国語となるため、クライアントの評価はおのずとシビアになってきます。私が経営するループ・インタープリターズ株式会社では、翻訳の成果物としての日本語について、自国の言葉であるからこその慎重さを忘れず日々の業務にあたっており、納品するものが第三者(第一にクライアント)が読むに堪え得るものであるかどうかを常に意識しています。そこには日本語としての響きや文章のリズム感といった部分も含まれ、ある意味では翻訳の域を越えた部分かもしれません。


以下は、都内にある超高級ホテル「コンラッド東京」のホテル案内に記載されている総支配人の挨拶文(日・英併記)です。ある程度格式のあるホテルであればどこでも目にするような文面です。コンラッド東京は近年都内でオープンした外資系ホテルの一つで、不況の荒波に日本上陸を果たし、最高級のサービスを提供することで収益を図っています。こうした超一流のサービスを誇るホテルでどんな文章表現が用いられているかを知ることは、我々のような言葉を商売道具にする側にとっては参考に値します。


先ずは文面を御覧下さい。(ここではあえて各文を日・英表記にしています)


「このたびは、コンラッド東京にお越しいただきまして、誠にありがとうございます。」
"I'm delighted to welcome you to Tokyo and the Conrad."


「和のモダンデザインとモダンラグジュアリーが融合するコンラッド東京では、お客様に真のやすらぎをご体験いただけることと自負しております。」
"At Conrad Tokyo, we combine world-class modern luxury with Japanese design elements and a strong sense of place to create a truly calming and inspirational atomosphere for your enjoyment."


「コンラッド東京のおもてなしの信条『サイレントシンフォニー』は、まるで交響楽団が静かに音楽を奏でるかの如く、チーム一丸のもと、優雅で途切れることのない、さりげないサービスを目標としております。」
"Our service Credo 'The Silent Symphony' aims to deliver elegant and pleasurable service --- un-intrusive but always calmingly around you --- as a result of a rehearsed and professional team effort."


「お客様に、コンラッド東京でのご滞在を心よりご満喫いただけますよう、チーム一同精一杯のおもてなしに努めさせていただきます。」
"On behalf of the team of Conrad Tokyo, I wish you an inspiring and very enjoyable stay."


いかがでしょうか。
全体的に、日・英の文章が逐語訳的に対応していないことがわかります。察するに原文は日本語で、英語の方はそれを元に翻訳されたものであると思われます。それを前提とすれば、上記の英語文章は日本語原文のアイデアを英語の語感に照らして上手くアウトプットされたものであると言えるでしょう。超高級ホテルの宿泊者へのメッセージという意味では、感性に訴えかけるような表現が求められます。シンプルかつインパクトのある表現としてこのような英文になったのかもしれません。


ここで「和文」という視点で、同ホテルのHPからある文章を抜粋します。以下は、上記3つ目の文にある『サイレントシンフォニー』、つまり同ホテルの命とも言える「おもてなしの信条」について説明している文面です。これが少々問題ありと思われます。


「まるで交響楽団が静かに音楽を奏でるように、私たちは丁寧なリハーサルを重ねて築き上げた、卓越したチームワークのもと、優雅で落ち着きのある、それでいて押し付けがましくなることのないサービスで皆様をお迎えいたします。コンラッド東京のおもてなし、それは、途切れ目のないハーモニーのようなサービスを、皆様に一貫してご提供することを意味します。」


この文章がどうような過程を経て作成されたのかは定かではありませんが、日本語の響きとして幾分疑問を抱いてしまいます。超高級のサービスを自負する同ホテルの公式HPに掲載する文面としてはお粗末であると言わざるを得ません。つまり、一つの文のなかにいくつものアイデアが詰め込まれているが故に、一流ホテルらしい洗練された文章に程遠く、言わんとすることがよく伝わってきません。実は、冒頭で述べた和訳(日本語)における慎重さとは、この例にあるような文をいかに無くすかということにも通じます。


翻訳能力という意味では、こうした要素は翻訳者の言葉への感性に依る部分が大きく、指摘されてすぐに変わるものではありません。残念ながら、言葉のプロである翻訳者といえども母国語である日本語をきちんと表現できていないことが少なからずあります。これは、「コロケーション(collocation:文・句における語のつながり方)」の問題です。このコロケーション、つまり言葉に対する感性は、一朝一夕に培われるものではありません。逆に言えば、この素養がしっかりしていれば翻訳の成果物が単なる訳文を越えた一つの『作品』となるのです。


私は通訳・翻訳の会社を経営するうえで、以上のようなこだわりや緻密さが無ければクライアントからの信頼や感動は得られないと肝に銘じています。現に、わが社の翻訳の質に感動され、それまでの取引先からわが社に変えてくださったクライアント企業が1社や2社ではありません。それに甘んじず、今後も「言葉への追及」を続けていきます。

 

 

 

スタジオジブリの宮崎駿氏と言えば、今や世界的に有名な日本が誇るアニメーション作家です。同氏は制作のなかで、アニメーター達が分担作業で仕上げた一枚一枚の絵をチェックするという気の遠くなるような作業を一人で行っています。どんなに忙しくても、これを人に任せることはないそうです。そこには一つ一つの絵に魂を吹き込んでいくという過程における宮崎駿氏ならではの感性が存在するのでしょう。その感性が多くの人々の感動を生む作品の源泉となっていることは間違いありません。別の言い方をすれば、同氏には他の人にはマネのできない、宮崎ワールドを支える何かが宿っているということです。

 

宮崎駿氏_1.jpg 宮崎駿氏_2.jpg

 

制作物の仕上げ段階で決して妥協を許さない宮崎駿氏の姿勢は、私が経営するループ・インタープリターズ株式会社(以下、ループ)にも共通するところがあります。ループの事業の一つである翻訳業務では、仕上がった翻訳文に対して必ず最終チェックが入りますが、そこではきめ細かい作業を行っています。結構手間のかかる作業ですが、この過程を抜きにループ・インタープリターズが掲げる「高品質の保証」は成し得ません。翻訳者から仕上がってきた成果物は、時として納期との兼ね合いや翻訳者自身の言葉への感性の程度などによって、品質レベルが不十分と感じられることが少なくありません。それをクライアントが満足するレベルに上げていく必要があります。逆に言えば、この作業が翻訳の品質レベルという点で差別化要因になっているとも言えます。


非常に高い能力を有するあるフリーランス翻訳者から、「ループさんほどしっかりチェックを入れている翻訳会社はなかなかないと思う」と言われることがあります。優秀な翻訳者を抱えることが欠かせないのは言うまでもありませんが、それと同等に(あるいはそれ以上に)最終仕上げの段階で翻訳の質や精度をいかにより高めていけるか、この点も非常に重要であるとループでは捉えています。


翻訳者がある程度優秀であれば、例えば仕上がった翻訳草稿をそのままクライアントに納品することも可能かもしれませんが、そうして納品されたものには一つの作品としての完成度にどこか疑問が残ります。冒頭の宮崎氏の話同様、翻訳に関してもそこに一つの作品性が感じられなければクライアントの感動(=高い評価)は得られません。


最近も、ある翻訳案件でクライアント(お得意様である弁護士の方)から 「日本語の趣旨をかなり的確に把握していただいた上、文言の選択等も常に的確で、とても助かりました。」 という大変ありがたいコメントをいただきました。このような実績を生みだすためには、第一に優秀な翻訳者によるプロたる仕事が欠かせませんが、一方でその成果物により一層の価値を吹き込んでいくようなきめ細かいチェック作業も求められるのです。たとえ納期設定が厳しい状況でも、そうした姿勢を崩してはならないと常に肝に銘じています。

 

ループは今の経済不況にあっても、さまざまなクライアントからお仕事をいただいています。その背景には、自らが納得できるものをお客様に提供していくという方針を崩さずにきたことが大きな要因としてあると思っています。ループ・インタープリターズは、今後も「言葉への飽くなき挑戦」を続けていくことで、より多くのクライアントから感動と信頼を得られるよう努力していく所存です。


 

 

「通訳」と「異文化コミュニケーション」は同じ意味に捉えられることが多いです。どちらの言葉も何気なく使われていますが、実際に行うことは容易ではありません。それをアートの世界で実践している日本人を紹介したいと思います。


 村上隆(むらかみ たかし)さんと言えば、今ではその名を知る人は多いと思います。

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同氏は、東京芸術大学 美術学部 日本画科卒、29歳でアーティストデビューし、39歳の時に米国の展覧会で海外進出を果たし、2005年ニューヨークで開いた「リトルボーイ展」で米国のメディアに絶賛されました。アニメやマンガをモチーフにした絵画やフィギュアを発表し続けるアーティストとして、欧米で高く評価されています。「オタク文化」と呼ばれる日本のサブカルチャーを世界に認めさせた現代アートの革命児と言えます。現在は、ニューヨークにもオフィスを構え、日本にある工房では24時間体制で制作にあたるなど積極的に活動しています。(現在46歳)

2005年「リトルボーイ展」の"リトルボーイ " とは、米国が日本に落とした原爆の名称です。村上隆さんはこの展覧会で、敗戦を経て戦争を放棄し平和国家となった日本において、その歩みのなかからアニメやマンガといった独自の文化が生まれたという考えを示して見せました。当時の米国メディアは、『大胆不敵で日本の文化や歴史への理解が深まる素晴らしい機会になるだろう』とこぞって評価しました。

39歳の時の展覧会では、葛飾北斎の浮世絵と自身が好きだった「銀河鉄道999」の絵を並べ、アニメやマンガの構図や表現方法は浮世絵から連なる日本の伝統美であると説明したのです。


この村上隆さんの作品には、人間の普遍的なコミュニケーションが根底のテーマとしてあります。興味深いのは、同氏があの有名な画家ピカソと同じ手法により自らが通訳として日本のアートを世界に送り込んだという点です。ピカソの絵は、アフリカのアートを採り入れた西洋画家の風体(ふうてい)をしてプレゼンテーションされたものである、と同氏は捉えています。同様に、日本のアートをアフリカの土着的な芸術のように考えて、それを油絵風味で通訳することである種の化学変化を起こすというのが村上隆流のコンセプトだと語っています。


「通訳する」と一口に言っても、実にさまざまなかたちがあることに気付かされます。アーティストにとってはそれが独自の文化や感性を世界に発信していく作業そのものとも言えます。ループ・インタープリターズ(以下、ループ)の『インタープリターズ』には、通訳者という一意的な意味だけでなく、もっと広い意味での「解釈者」として世の中から必要とされる存在になるという願いも込められています。クライアントからいただく一つ一つの通訳・翻訳の仕事に対し、言葉という道具を用いたサービスを提供することで期待に応え続けていく、それがループの姿です。村上隆さんの話しぶりには随所に巧みな言葉使いが感じられますが、それはアーティストとして自分の感性を世界に発信していくためのツールとして、コミュニケーション能力を重視しているからだと思います。


村上隆さんは、今アニメーションの制作にも取り掛かっており、そのことについて「これまでにやってきたことがないコンテクストなので難しいが、映画という文法を借りて自分のメッセージを伝えたい」と語っています。メッセージには当然言葉が必要になりますが、そこにどんな言葉を置くかは感性が大きく影響します。ループの事業である通訳・翻訳に当てはめれば、訳語の選定ということになりますが、そこにはアートの要素も関係していると思います。言葉の持つ意味を文化的背景とともに的確にとらえ、それを別の言語で表現していくプロセスには、機械では消化しきれない思考能力が必要となります。 


同氏は、今「寿命」をテーマにそれを子供にどうやって伝えるのかについても思いを巡らせているようです。「遺伝子を引き受けてなぜ生きていくのか?という意味を、宗教や医学の世界のエッセンスを全部盛り込んで伝えてみたら子供はどうやって育つのか、をアニメーションを通してやってみたい」と現代アートの分野で新たな表現方法を模索しています。世界に胸を張って自分の芸術を認めてもらうことは素晴らしいことであると語る一方、日本は世界一の芸術大国になる可能性を持っているが豊か過ぎてそのことに気が付いていないと考えるその冷静さにアーティストとしての能力の高さを感じます。

 

 

 

30年にわたり通訳の検定試験などを実施してきた「日本通訳協会」が資金繰り悪化を理由に東京・新宿にある事務所を閉鎖していたことが判明しました。


  通訳検定_バナー.gif

 

明日予定されていた検定試験も直前に中止されることになったようです。


同協会は「今般の経済不況のなかで必要な金融支援も受けられず、やむなく閉鎖せざるを得ない」と説明しています。(日本通訳協会閉鎖のお知らせはこちら


私が経営するループ・インタープリターズ(以下、ループ)には直接関係はありませんが、通訳業界に身を置く一人として、少し複雑な気持ちになりました。ループの通訳事業では、第一線で活躍する優秀なプロの通訳者を起用するのですが、プロの通訳者はこの通訳検定ではなく、通訳養成の専門スクールを卒業している人が多数を占めます。通訳検定を受験するのは、どちらかと言えば通訳を生業にしていない人がほとんどでしょうが、通訳がどんなものなのかを知ってもらうという意味でもとても有効な制度だと思います。


専門性の高い講演などの通訳を請け負う際に注意を要するのは、クライアントがどの程度通訳を理解しているか、あるいは通訳を使い慣れているかということです。通訳についてほとんど理解されていないクライアントを相手にする場合、ある程度の時間をかけて通訳の仕事そのものについて理解を促すことが欠かせません。通訳という存在に不慣れなお客様によくあるパターンとして、通訳は機械的にいとも簡単に言葉を発していくと思っていることです。そんなことは決してなく、事前の入念な準備(講演者などから入手する資料など、時には膨大な量になることも)はもちろんのこと、本番での凄まじい程の集中力や培ってきた思考回路を駆使して最高のパフォーマンスを発揮しているのが通訳です。


たとえ他の言語を流暢に話すことができても、通訳ができるかと言えば、それは別の話です。ある程度高いレベルの言語力があって、それにプラスして通訳に必要な記憶保持能力や高速かつ正確に機能する思考回路などが通訳には求められるのです。そうした能力は一朝一夕には得られるものではなく訓練が必要となりますが、一方で一般にはこうした事実はなかなか知られていません。そういった意味で、今回中止となった通訳検定は、通訳がどんなものなのかをより広く知ってもらうには良い手段であったと思われます。


通訳の代表的な活躍の場として国際会議がありますが、ここ近年日本国内における開催数が年々減少傾向にあります。一方で、シンガポールなど他のアジアの国における開催が増加しています。そんな現状を背景に、この度の日本通訳協会の閉鎖が通訳業界にどんな影響を及ぼすかはわかりませんが、これでより一層「知る人ぞ知る」世界になってしまうことを私は危惧します。

 

 

 

「翻訳」といってもこの翻訳の世界は様々なジャンルに分かれており、翻訳会社だからといってすべての翻訳を扱うわけではありません。弊社のように、企業や研究機関を対象に契約書や特許、研究論文、技術文書を専門にするところもあれば、専門書や小説などの書籍翻訳、映画の字幕翻訳、音楽の歌詞翻訳など様々です。


企業や研究機関を対象にしていますと著作権そのものは依頼元の企業や研究機関にありますので、依頼された内容にいちいち翻訳者や弊社のような会社名がでることはありません。しかし、書籍や映画の字幕、そして歌詞翻訳では必ず翻訳者の名前が著者名とともに連名されます。これは、著作権の対象となり、翻訳者は二次的著作物(著作権法2条1項11号)の著作者となり著作権を有します。


少し専門的な話になりますが、現在の法律では、原則著作者生存期間と死後50年間は、原著作者の許諾がなければ翻訳することはできません。例えば、原作者がある本を出してから50年以上たっているものをある人が翻訳したとします。翻訳されたその本の著作権=経済的権利は翻訳者にのみあるということになります。なぜなら、原著作者は、二次的著作物の著作者と同一の権利を専有する(同28条)と規定されていますが、この経済的権利は、保護期間が存続する間しか主張できないからです。但し、原作者は、経済的権利は失うものの、人格権は原作者の死後も保護されます(同60条)。ですから、経済的権利がないからといって、原作を自由に変更したりすれば故意又は過失により人格権を侵害する行為になると考えられ、遺族(孫までの姻族)は、差し止め請求とともに名誉回復措置を請求することもできるのです(同116条)。また、海外の書籍を扱う場合、第二次世界大戦の連合国は、10年以上の戦時加算があり、米、英、仏などの国民の著作者は保護期間の計算方法が異なるようなのできちんと調査した上で翻訳をする必要があるようです。


さて、この経済的権利である著作料ですが、売れれば売れるほど儲かることはいうまでもありません。翻訳の世界もピンキリですが、近年最も有名な翻訳者といえば、松岡佑子さん。


ハリー・ポッターシリーズを翻訳した方です。彼女の印税は数十億と聞いたことがあります。全く羨ましい限りですが、現代だからこそ成し得たことのような気がします。個人的には彼女は単なる翻訳者というより企業家としてのセンスや先見の明があったのではないかと思います。そんな彼女もスイスでの豪邸住まいを優雅に楽しんでいるのかと思いきや、ご主人を亡くされたり、ハリー・ポッターの「不死鳥の騎士団」を翻訳している最中に父親を亡くされたりといろいろと苦労されているようです。しかし、それらの経験が翻訳にも生かされているとご本人のコメントを読んだことがあります。


最近、翻訳について興味のある記事を読みました。2008年11月1日の日本経済新聞に掲載された「源氏物語千年紀」についてです。「源氏物語千年紀」というタイトルだけでもロマンを感じます。源氏物語が誕生して1000年を迎え各地で様々な行事が行われているほか、世界の源氏研究者が様々な成果を発表しています。先日、文化勲章を受章したコロンビア大学のドナルド・キーン教授もその一人です。記事によると、源氏は英国、フランス、ロシア、韓国、スウェーデンなど二十以上の国や地域の言語に翻訳されており、現在もモンゴル語、ウクライナ語、エスペラント語が進行中とのこと。

 

2008年11月1日の日経新聞記事

日経記事(源氏物語)_081101.jpg

 

源氏物語ともなると、原文を読み解くにもかなり専門的な知識がいるので、古典語を現代語に翻訳する「現代語訳」という作業が必要になります。現代語になった源氏物語でも、更に外国語に翻訳するとなれば、歴史、美術史も含めかなり広範囲の研究をしなければ、美しいこの日本独自の物語を外国語に翻訳するのは難しいことが容易に想像することができます。しかし、一方で難しいからこそやりがいがあり、日本独自の言語とそれにマッチした言語表現を生み出す喜びもあるに違いありません。様々な研究者によって翻訳されているので、もちろんその翻訳者が二次的著作物として権利を持つのでしょうが、これだけの大作は国家レベルのプロジェクトとして支えていくことも必要でしょう。


少し話はそれますが、源氏物語はこれだけ有名なのにもかかわらず、本格的なドラマや映画が少ない印象があります。また、美しい源氏を演じるため、映画やドラマの多くが女優に源氏役をさせています。紫式部役の吉永小百合と源氏役の天海祐希の「源氏物語・千年の恋」という映画がありましたが、ここでも源氏役が女優でした。美しい源氏というイメージから女性を起用したくなる気持ちもわかりますが、個人的にはやはり源氏は日本男児に演じてほしいと思ってしまいます。物語の中心は男女の愛憎劇なので、 NHKの大河ドラマなどでは扱いにくいかもしれませんが、これだけ世界で愛される古典文学であり、また多くの国で翻訳されているのなら、本格的な長編ドラマを作って世界に日本の文化をより強くアピールするべきだと感じます。これからは日本が何かと注目される時代が再びやってくる予感がするのは私だけでしょうか。。。

 

 

 

10月もあと2週間を残すところとなり、秋真っ盛りです。私はこれから年末までの時期が一年で一番好きです。


今日は「m&m's」のサイトを取り上げます。m&m'sは、チョコレートの代名詞的存在ですね。

   

m&m's package.gif m&m's_minis.gifこのサイト(http://www.m-ms.jp/index_top.html)を見ると、m&m'sチョコレートをモチーフにしたいろいろなキャラクターの説明がされていて面白いです。それぞれのキャラクターには、細かく特徴が設定されていて愉快な気分にさせてくれます。


 

 

 

 

 

インターネットを使ったビジネスにおける訴求効果という意味では、なかなか勉強にもなります。

 


 

 

これ(↓)は私が普段使用しているPCの壁紙(Wallpaper)になっている画像です。

m&m's.jpg


仕事で忙しい時でも、この画面を目にすることで遊び心を忘れずにいられます。ちょっとしたストレス軽減の効果もあるかもしれません。


実はこの画像、m&m'sのサイトにあるカスタマイズ機能付きオリジナル壁紙作成ツールを利用して私が完成させたものです。同サイトでは、自分の好みに合わせた壁紙のデザインをつくり、それをダウンロードすることができます。もちろん無料です。他にも、遊び心満載なコンテンツがいろいろあり、一度覗いてみる価値はあると思います。


これから年の瀬にかけて、一層忙しくなっていく人が多いと思いますが、いつもどこかに遊び心を残しておく余裕を持っていたいものです。そういった意味で、このようなサービスを利用してみるのもよいかもしれません。

 

 

 

ちょうど今の時期は、来年用の手帳がぞくぞくと登場する頃です。書店の一角には手帳コーナーが設けられ、ポケットサイズなどの使い切りタイプがドサっと置かれています。


私は今月あたまにシステム手帳を買い替えました。これまでのバイブルサイズから一まわり大きいA5サイズのものを購入。今回の購入動機は、「永く愛着を持って使えるものを手元に置きたい」ということで、自分なりに慎重に選びました。


結局選んだのがこれ(↓)です。

Finchley_1.JPG


これを一目見て、わかる人にはすぐわかると思います。

英国で生まれたシステム手帳の老舗ブランドである『fILOFAX(ファイロファックス)』です。

ファイロファックスには、デザイン別にいくつもの商品が出されていますが、私が購入したのは「Finchley(フィンチリー)」というものです。これは、同ブランドのなかでも高額商品ですが、私としては愛着が持てるかどうかに基準を置いていたので、品質の点から見てもこの商品に落ち着きました。


Finchley_2.JPG


インターネット検索ではわからない、手に取った時の革の感触や光沢の度合、あるいは手帳を開いた時のしなやかさなどは、実際に銀座の伊東屋で自分で手にして確認しました。そのうえで、「これしかない!」と納得しました。


一番にはモノの品質が購入の決定要素でしたが、このファイロファックスが英国のブランドであるという点にも親しみを感じています。英国では、古いものを永く大切に使い続けるという習慣があります。特にロンドンなどでは骨董品の店が多いことはよく知られています。その他にも人が着なくなった服を回収して、それらを上手く再利用することで新たな価値を持った服に生まれ変わらせ、それをまた人が買う、そういったシステムが街のシステムとして機能していたりするのです。


Finchley_3.JPG


このFinchley(フィンチリー)という商品、使われているレザーに適度な柔らかさとしなやかさを感じつつも、全体的にしっかりした作りになっています。開いた時に見えるポケット類についても良い仕上がりです。デザイン的に派手さはありませんが、stitch(ステッチ)の入れ方がシンプルで飽きがこず、気に入っています。

このFinchleyのおかげで、私が愛用してきたWATERMAN 万年筆の出番が一段と増えそうです。


ちなみに私はこのシステム手帳をインターネットショップで購入しました。定価よりずっと安く買うことができたのですが(初め見つけた時、その価格が本当?かと疑う程に)、その情報を自分で見つけられたのは幸運でした。定価のまま売りに出しているネットショップは決して少なくなく、今回の買い物で改めてインターネット時代における情報検索&収集力の大切さを思い知りました。


さて、これからの課題は、自分がこの手帳に見劣りしないようにすることでしょうか・・

 


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

 

Mother Goose(マザーグース)と聞くと「英語圏の小さい子供向きの童謡」と思われる方もいるかもしれませんが、実は一般の会話や新聞などの政治・経済欄の見出しや、コマーシャルや小説など幅広い分野に頻繁に登場します。童謡といわれながらも、シェークスピアの有名なフレーズの次によく使われるほどです。ですから、子供向きと馬鹿にはできないものです。


マザーグースは英国イギリスが発祥地。欧米諸国(英語圏)の人々は平均でも100のマザーグースの詩を口ずさむことができるといわれています。日本でも数多くのライムが翻訳されていますし、小さい頃からなじみのある歌もあります。本来、マザーグースのライムは英語という言語の持つ韻を含むリズムや音を楽しみながら学ぶものなので、残念ながら日本語に翻訳されたものはその面白さが半減してしまいます。例えば、"spice" "nice"や"bread" "head""dead""red"は脚韻を踏んでいます。母国語で作られたものを母国語以外の言語に翻訳するときはどの言語においても必ず直面する問題です。ですから、まずは意味を知ろうとするのではなく、原文の音を楽しむことから始めるとマザーブースの面白さがわかると思います。


マザーグースという言葉は日本ではイギリスの伝承童謡の代名詞として普通に呼ばれていますが、正式には Nursery Rhymes (ナーサリー・ライム=童謡/わらべ歌)と呼ばれています。マザーグースがこの英国伝承の童謡の象徴になったきっかけは、1806年にイギリスの道化師によって上演された「Harlequin and Mother Goose; or the Golden Egg (ハーレクインとマザーグース、または金の卵)」で、伝説的なマザーグースのイメージに魔女の要素が加味されたのです。この劇を韻文化した物語詩が行商人が売り歩いたことにより広がったといわれています。


いまさらマザーグースなんてと思われる大人の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、なぜ英語圏の国々では大人の世界でもこのマザーグースのフレーズが使われているのでしょう?マザーグースの世界には、実は大人の男と女をテーマにしたものやナンセンスなもの、不気味で残酷な内容のものが少なくありません。きれいごとだけではすまされないのも人間の世界。このあたりが単なる童謡としての価値以上のものがあるのではないでしょうか。または、イギリス人ならではのユーモア(ブラックユーモア)の精神が現れているのかもしれません。

Tom, Tom, of Islington,
Married a wife on Sunday
Brought her home on Monday
Bought a stick on Tuesday,
Beat her well on Wednesday,
Sick was she on Thursday,
Dead was she on Friday,
Glad was Tom on Saturday night
To bury his wife on Sunday

トム トム イズリントンのトム
日曜日に 奥さんと結婚し
月曜日に 奥さんを連れて帰り
火曜日に こん棒を一本買い
水曜日に 奥さんをこっぴどく叩き
木曜日に 奥さんはすっかり寝込み
金曜日に 奥さんはあの世に行き
土曜日の夜は 嬉しそうなトム だって
日曜日に 奥さんを埋葬するからさ


思わず苦笑いしてしまいます。結婚は人生の墓場を表現したものでしょうか。。。この他にも、ハバートおばさん(Old Mother Hubbard)では、飼い犬が死んだかと思うと次の詩ではパイプをふかしていたり、出かけて帰ってくると今度はフルートを吹いていたり、まったく意味不明な内容もあれば、Three Blind Mice(三匹のめくらねずみ)では、刃物を持ってネズミを追いかける怖いおばさんがいたりします。Ding,Dong,Bell(ディンドン鐘がなる)では、子猫を残酷に殺すような子供が登場したりと日本ではちょっと考えられないようなものもきちんと伝承されているのです。このようなテーマのものは、ミステリー小説にも数多く登場します。イギリスのミステリー作家アガサ・クリスティーの小説の中にもでてきます。


2012年にはロンドンでオリンピックが開催されます。今後は、英国イギリスが何かと注目されてくるでしょう。大人のマザーグースの楽しみ方の一つに、ロンドンのマザーグースめぐりはいかがでしょう。日本でもおなじみの「ロンドン橋」から始まり、Oranges &Lemons(オレンジとレモン)の中でうたわれたロンドン市内の16の教会めぐりもおつなものです。Upon St. Paul's Steeple(セント・ポール大聖堂)やご紹介した上記の歌のように怖~いイズリントンを訪れるのも面白いでしょう。他にも、ロンドンにはマザーグースの歌のタイトルがついた古くから続くパブやストリートが数多く残っています。

 

 

 

"エクソフォニー"とはドイツ語で「母語の外へ出た状態」一般を指します。あまり聞いたことがないと思いますが、この言葉は2002年の文学研究の学会である研究者が言葉にしたものらしく、ドイツ語の辞書を調べも見つけることができなかったので、新しい概念を持った言葉だといえるかもしれません。非常に美しい響きがある言葉です。この言葉を知るきっかけとなったのが、多和田葉子さんという作家が書いた「エクソフォニー ~母語の外へ出る旅~」という本です。

 

彼女は日本語とドイツ語の両方で本を書きます。ご本人は作家でもあり、翻訳家でもあります。実際、その国の人が母国語で本を書くというのは当たり前ですが、母国語以外で小説を書くというのは実際あまりありません。ドイツ人がフランス語で小説を書くとか、アメリカ人がスペイン語で小説を書くとか、日本人が中国語の小説を書くというようなことはあまり多くは聞きません。彼女は日本でもドイツでも多くの賞を受賞していますが、なぜ彼女が日本だけでなく母語を越えて成功することができたのか-これは、個人的な解釈ですが、単なる外国語として捉えるのではなくある常識から「外へ出る」ことを試み、自分の周りにある以外のものを理解し吸収していったからではないかと思います。

 

日本では、英語が何かと注目されがちですが、言語は、その国の持つ文化や歴史、そして政治的な問題など様々なものにつながっている非常に奥の深いものですので、世界的な共通語として英語だけを見つめるとなかなか世界が見えてこないことも多いといえるでしょう。

 

翻訳や通訳といった仕事をしていますと、"エクソフォニー"な世界が見えてきます。ビジネスの分野、研究の分野、法律の分野、芸術や文学の分野、それぞれ異なった分野で母国語と母国語以外のところをいったりきたりする作業はまさしく"エクソフォニー"な世界です。時には、まったく知らなかった分野に触れ、これまでとてもできそうにないようなことがいつの間にかできるようになったり、また何度もやってきたことなのにうまくいかず更に学ぶことがあります。翻訳や通訳は機械でできるような単一の世界ではありません。文章を書くのはコンピューターではなく、人から生まれます。表現も環境も異なるところから生まれたその言葉を一つの言語にまとめていくイメージ力と言語力を持つ翻訳者や通訳者は"エクソフォニー"な人といえるかもしれません。


 

 

9月1日のNHKの「クローズアップ現代」で、インターネットからコピー&ペースト(通称コピペ)をして論文作成などをする問題についての報道がありました。学生の論文ばかりでなく、行政機関などでもインターネットで公開されている情報をコピペして資料を作成しているというケースも多々あるとのことでした。

 

驚いたのは、読書感想文の内容がコピペできるサイトがあるということです。そのサイト管理者曰く「子どもたちに有意義な時間を過ごしてもらうため」とのコメントに違和感を覚えました。

 

私たちのように翻訳や通訳といった仕事をしていますと、ひとつひとつの言語にたいして非常に敏感になります。数ある仕事をこなしていく間に、専門的な分野であろうとなからろうと、その文章が完成度の高いものかどうかということがわかるようになってきます。これは作家、エッセイスト、あるいは論文をよく書くような言語のプロフェッショナルにも共通することです。

 

翻訳でいうなら、母国語以外の言語から母国語に置き換えるときも、いったん自分の頭の中に言語を取り込み、それからどのような文章が理想なのかを考え、編集されたものが翻訳の言語となります。ですから、それを訓練した人ほど引き出しが多いので、より完成度の高い文章(私たちはこれを「読んでいて気持ちのよい文章」といっています)となって現れます。

 

現在は、いちいち辞書を引かなくてもインターネットで単語を調べることができますし、翻訳ができるソフトウエアなども存在します。私たちも、こういったものを利用することがありますが、翻訳においては、インターネットででてきた訳をそのまま使うことはしません。あるいは、「できない」といったほうが正確かもしれません。そのまま使うと、全体の文章を読んだとき、違和感のあるもにに仕上がってしまい、完成度の低い文章となってしまいます。ですから、単語をつなげただけの訳は読んですぐにわかります。気持ちのよい文章は、いったん人間の頭で考え編集されなければ生まれてはこないのです。

 

最近、インターネットなどでサイト運営者や会社経営者が書いたマニュアルやXX攻略法などを販売しているところがあります。ほとんどの場合、文章がひどく、最もひどいのは、校正がまったくされていないため、誤字脱字があるものを平気で販売している人が少なくありません。これは、書籍ではまずあり得ないことです。確かに、何かを攻略するためにその目的を達成できれば事がすむと考えるのかもしれませんが、このような文章を読んでしまうと「本当にこの人は信用できるのか」と思ってしまいますし、またその人の仕事内容にも疑問を感じてしまいます。無料ならまだしも、対価を支払って入手する人に失礼ではないでしょうか。

 

現在は、ブログや掲示板などでの書き込みも多いので、フレンドリーであることが重視され、また身元を隠せるニックネームでのやりとりのため、言語に対する注意はほとんどなされていません。その延長で、こういった人がマニュアルを書くので、違和感のある文章に仕上がります。最近目につくのは、「い」を抜く人たちです。例えば、「~しています。」というのを「~してます。」と書きます。これはブログや掲示板などでは問題ありませんが、フォーマルな文章には使うことはできません。それが、インターネット販売されているWordで作成されたマニュアル等で多く使われているのを目にします。

 

脳科学者の茂木健一郎氏も、脳は窮地に陥るほど働くと言っていました。それが脳の栄養になるとか。文章ひとつでも、自分の言葉で書くこと、また翻訳においては一つの言語にこだわって、悩んで悩んで訳すことが、最終的に気持ちの良い文章、そして良い翻訳につながります。そんなに時間はかけられないという場合もありますから、なかなか難しいところでもありますが、ぎりぎりまで生む苦しみの経験を積んだ人が、最終的に本物の翻訳者になるのではないでしょうか。 しょうか。

 

 

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